水谷養蜂園の源流Roots
暮らしに、
はちみつの恵みを広めたい。水谷養蜂園は創業以来ずっと、みつばちと向き合い、はちみつの価値や可能性を見出し、
商品を通じてその恵みをお届けしてきました。
みつばちとともに歩み、お客様の視点ではちみつづくりをすること。
それが水谷養蜂園の使命であり、歴史そのものです。
1912
水谷養蜂園の歴史は
3箱のみつばちから始まりました
創業者である水谷松治郎は、当時養蜂がさかんだった岐阜から、3箱の西洋みつばちを譲り受けました。松治郎はみつばちが集めるはちみつのおいしさに感動し、家族や近隣の人たちが喜ぶ姿を見て創業を決意。1912(大正元)年、花の咲く時期に合わせてみつばちと共に全国を旅する「転地養蜂」を取り入れ、本格的な養蜂業をスタートさせました。
1928
花を求めて北から南へ。
転地養蜂技術を確立
転地養蜂の技術をさらに高め、近代養蜂の基礎を築き上げたのが2代目・清一です。清一は1928(昭和3)年、正式に「水谷兄弟養蜂場」を設立し、試行錯誤を繰り返しながら独自の転地養蜂を確立。花咲く季節に合わせて北から南へ移動する際のみつばちの安全な運搬方法や、はちみつの自然なおいしさや栄養素を守る技術などを次々に開発しました。
1957
はちみつを瓶詰めに。
水谷ブランドの誕生
1957(昭和32)年、3代目の水谷太美は、はちみつを瓶詰めにして販売するという新たな試みに挑戦。水谷ブランドが誕生しました。太美は当時の国鉄(現・JR)と交渉し、職員や家族が生活用品を購入するために利用する物資部での販売許可を取得。全国の物資部で実演販売をしながら、はちみつのおいしさや栄養価、楽しみ方などを広めました。
1958
日本で初めて
花の種類別にはちみつを発売
太美は、はちみつをただ瓶詰めにするだけではなく、花の種類別に売り出すことを発案。転地養蜂の先駆者として長年培ったノウハウから、みつばちには同じ花の蜜を集める習性があることに着目したのです。れんげ、高山植物、みかんなど、花によって味も香りも違うことはもちろん、その夢のあるコンセプトが多くの人々の心を惹きつけました。
1990
はちみつの
アンテナショップをオープン
1990(平成2)年、三重県松阪市に直営店「松治郎の舗」をオープン。自慢のはちみつはもちろん、はちみつを使ったさまざまなオリジナル商品も店頭に並べました。中でも「はちみつ最中アイス」は行列ができるほどの人気に。「松治郎の舗」はアンテナショップとしての役割だけでなく、地域の方々とつながり、絆を深めるきっかけにもなりました。
1996
独自のトレーサビリティシステムで
グローバル化
先代たちが築いてきた水谷養蜂園の信頼と実績をもとに、広く世界へと目を向けたのが1996(平成8)年に4代目社長に就任した水谷友彦です。友彦は独自のトレーサビリティシステムを構築し、中国で「安全でおいしく、低価格なはちみつづくり」を可能にしました。さらに、世界各国の優れた技術を持つ養蜂家を訪ね、パートナーシップを結びました。
百年未来100th Future
みつばちと
アインシュタイン
かつてアインシュタインは、「もしも地球上からみつばちがいなくなれば、人間は4年以上生きられないだろう」と言ったそうです。なぜなら、みつばちがいなくなれば植物は受粉できず絶滅に至り、その結果、酸素が供給されなくなって人間も生きていけないというわけです。近年、みつばちの群れがこつぜんと姿を消すという「蜂群崩壊症候群(CCD)」という現象が世界各地で起き問題となりました。その原因は今もまだ解明されていませんが、蜜源である花の減少や農薬使用などによる免疫力低下やストレスではないかと言われています。環境破壊や宅地開発などによって花畑が減少するとみつばちは生きていけず、自然の生態系も大きく崩れてしまいます。
専務取締役・水谷俊介
蜜源である花を育てる
プロジェクトを実施
水谷養蜂園では専務取締役の水谷俊介を中心に、蜜源である花を育てるプロジェクトを実施。休耕田を借りるなどして多種多様な花を植える活動をしながら、蜜源を守るための啓蒙活動をおこなっています。さらに、水谷養蜂園が百年かけて培った技術をより多くの人に伝え、すぐれた後継者を育成することにも力を注いでいます。
はちみつという素晴らしい贈りものを届けてくれるだけでなく、果物や野菜の受粉を助け、わたしたちに豊かな食をもたらしてくれるみつばち。彼らから多大な恩恵を受けてきた水谷養蜂園は、その恩返しともいえる活動に今後ますます力を入れていきたいと考えています。
みつばちと養蜂を守り育てていくことが、未来の豊かな自然を守ることにつながる—それが百年という区切りを迎えたわたしたち水谷養蜂園の使命なのです。